江差など江戸時代に道南ではじまったニシン漁は、北前船などによるニシン粕の販路の拡大とともに隆盛を迎え、「江差の春は江戸にもない」と歌われるようになった。 しかし、主たる漁場は年を経るとともに北上し、江戸時代後半からは小樽周辺がもっとも有力な漁場となる。漁法の改良や動力の導入などにより、明治から大正にかけてニシン漁とそれがもたらす莫大な経済効果はピークを迎える。
この「鰊盛業屏風」はその最盛期の明治30年代のニシン漁場を描いたものである。 六曲一双のこの屏風は久保田金僊(くぼたきんせん:1875-1954)によって明治36年(1903)、28歳のときに描かれ、翌明治37年のセントルイス万博に他の日本を代表する工芸品とともに出品されている。
ところで、この当時のニシン漁は、良質な肥料である「〆粕」生産が主目的であった。 江戸時代後期から、瀬戸内各地の綿花、阿波(徳島)の藍、紀伊(和歌山)のミカンなど高価で取引される作物に使われた。徳島県の肥料問屋に残された幕末の書状には、小樽倉庫ゆかりの西谷庄八の名前が書かれており、北前船で大量のニシン〆粕が運ばれたことが記されている。
明治37(1904)年の統計では全道の〆粕生産額はおよそ550万円(現在の約220億円)に相当に対し、食用の身欠ニシンは1割程度のおよそ60万円(同24億円)であった。 しかし、小樽に限ると、〆粕生産額の6割以上、およそ50万円(同20億円)の身欠ニシンを生産している。 すなわち、全道の身欠ニシンの80%以上は小樽周辺で生産されていた。 すでに明治前半から小樽・高島の身欠ニシンはブランド化されていた人気商品であった。
ニシンは昭和30年前後に北海道近海から姿を消した。 しかし、水産加工の技術は途絶えることなく、小樽のブランドを守ってきた。 そして、10年ほど前、やっとニシンが前浜に戻ってきた。 小樽の早春に「春告魚」が帰ってきたのである。